長文ですが、備忘録として記しておきます。
ずっと強烈に降り続く雨・・雨に慣れている熊野市民でも「ちょっとこれはやばいぞ」と思いつつ、TVの気象情報を見ていたら突然停電・・
外の様子がおかしいと出てみると、いつもは水がないくらいの谷川があふれて、家の壁に水が当たっている・・避難して来ていた有馬町の低地に住んでいた長男夫婦と連れ合いを二階に上げ、軽トラを少し高いところへ上げたろころで水は床下へ・・家の前を叔母宅の方面へ流れていく濁流・・家の裏の市道はすでに川・・我が家は孤立してました。
少し明るくなってきた午前4時・・家族が「危ないから・・」と止めるのも聞かずに合羽を着て外へ・・雨は相変わらず強く降り止む気配もない・・長靴に水が入るもの構わずに叔母宅の無事を確認し、その足で原木市場へ・・なんと原木が水で流されてコロコロ転がっている・・そんなとき大きな音がして目を向けると、暗がりの中で中州にあった樹齢数百年の杉の大木が倒れていく・・声も出ず・・でも逃げようともせず、なぜか冷静にいる自分が不思議でした。
そのまま集落を見回っていると、診療所裏の土手が崩れて谷を塞いでいてえらいことに・・下流の家の様子を確認に走り無事を確認・・
その後も集落の惨状はあちこちで・・そういえば緊急招集もなかったなあと思いつつそのまま歩いて市役所の出張所へ・・そこで目に入ったのは、水没しそうになった出張所・・
少しずつ雨が小康状態になり、水が引いてきたところで待機していた出張所の職員と合流・・
非常電源でとりあえずつながっていた携帯で本庁に連絡を取るも、本庁の電源室が浸水して電源を失っているとか・・「災害調査は任せる・・」ということで、町内の職員を招集して対応することに・・
それから3日間は、携帯も非常用電源が機能しなくなり不通、連絡はアナログ電話機があった我が家でしか連絡方法がない・・あまりにも不便だと思っていたところで、あまり使わなくなっていたアマチュア無線機での通信を試みたところ繋がった・・以後は、無線機と我が家の電話機で何とか連絡を取り、災害を受けた家庭の調査を・・
町内のあちこちで崩土、倒木があり、橋は落ち道路は各所で寸断・・チェーンソーを持って走りながら市民の皆さんの安否確認・・床下、床上浸水の家屋もあり、対応策を本庁に聞くこともできず途方に暮れそうになる自分・・めげるな!と言い聞かせながらその時できることをできる限りやっていきました。
4日目にやっと市街地との交通手段が確保され、登庁して災害対策本部へ現状報告・・そこで、市内の惨状を聞きました。
その後は山間部の災害対応を兼務しつつし、改めて水産振興課長として担当する部門への対応もこなすという目の回るような日々を送ることになりました。
市街地と行き来することができるようになった日、まちおこし塾に参加してくれていた若い衆が「これ持ってきたで」と発電機を我が家に届けてくれた・・そのおかげで、我が家の風呂が使えることになり集落の皆さんにも開放・・その御恩は忘れたことがありません。
翌日には、電力会社の発電車が町内に入り、弱いながらも電気が・・電気のありがたさが身に染みた一瞬でした。
そして、5日目以降は毎日夜遅くまで災害対応・・思えば、年末まで作業服のまま勤務していたような気がします。
地元の飛鳥町に戻っても、潰された家屋を解体したり、重機が入らない集落道の崩土を手作業で片付けたり・・職務以外でも休むことなく動き回った数か月でした。
もちろん多くのボランティアの皆さんが駆けつけてくれて、あちこちで土砂撤去作業などを行っていただいたこと・・泥んこになりながら作業していただいたことには感謝しかありません。
その姿に私たちに勇気をいただきましたし、明日への希望も与えていただきました。
皆さんの力が無ければ、あんなに早い期間での復旧は無かったと思います。
私的には、一つは孤立していた小船集落での記憶・・
迂回を繰り返しながらたどり着いた小船は電柱の上まで流されてきたゴミが引っかかっているなど想像もできない災害を目の当たりにしたこと・・
大阪の友人(スーパーの副社長)から大量に送っていただいた食料品を軽トラックに積んでの訪問でしたが、届けたインスタントカレーを食しながら「こんな美味いカレー食べたのは始めたや」と言ってくれた高齢者の笑顔・・そして所属していたボランティア団体から届いた洗濯機を届けた時の住民の方の笑顔が忘れられません。
そして、区の代表者から家の解体依頼を受けて、漁師の皆さんに出張ってもらったことも・・普段は海仕事しかしていない人たちが、手に手にトンカチやくぎ抜きをもっての汗だくの作業・・そして一方では、美味しい魚を食べてもらいたいと、避難所で刺身やみそ汁を作ってふるまっていただきとても喜んでいただいたこと・・ずっと心の中に残っています。
それともう一つ忘れられないのが、何とか通れるのではと思いつつ一人峠道を車を走らせ、落石や土砂をどけながらたどり着いた限界集落・・親方が一人で仕事場を守っていて、無事な姿を見た時の安堵の気持ち・・そんな心配していた気持ちとは裏腹に「えらいことやったわ」と笑いながら言う親方の姿にあっけにとられたこと・・「この人の度胸は半端やないわ」・・
幸い、市内のあの惨状にも関わらず、犠牲者がただの一人もいなかったこと・・それは備えがしっかりとしていたということだけでは無く、いくつもの偶然と幸運があったことと、命を賭して救助活動を行ってくれた関係者の方々のご尽力であったことを忘れてはなりません。
「災害は起こってみないとわからない」などと言う方もいますが、予測できることにできる限り対処して、そして予想外ともいえることにも注意を怠らない備えがあって、被災を抑制することが出来ると思います。
いつも偶然や幸運が私たちを助けてくれるとは限りません。
予見と予防をソフト面だけではなくハード面でも実行していける自治体を目指すこと・・それが安全安心の地域づくりと言えるのではないかと思います。
災害後11年・・多くのボランティアの皆さんに駆けつけていただき、土木事業者の皆さんを始めとした関係者の不眠不休の災害対応・・そしてその後の災害復旧事業を経て、今ではその形跡を目にすることは少なくなりました。
しかし、あの災害を「過去のこと」と片付けてしまうことは決してあってはならないと思います。
先日、和気と対岸の熊野川地区を結ぶ「三和大橋」についている傷を見上げながら、「あそこまで水がきたんですよ」と遠来のお客様に・・
「この気候変動の世紀・・なにがあってもおかしくはないですね」というお客様の言葉に改めて「異常気象」が異常ではなくなってきている現代を心に刻みました。
100年に一度の災害は、もしかするとすぐそこにあるかもしれない・・
こころして備えていきたいですね。



