熊野市議会議員久保さとし・・紀伊半島大水害から11年・・

長文ですが、備忘録として記しておきます。

ずっと強烈に降り続く雨・・雨に慣れている熊野市民でも「ちょっとこれはやばいぞ」と思いつつ、TVの気象情報を見ていたら突然停電・・
外の様子がおかしいと出てみると、いつもは水がないくらいの谷川があふれて、家の壁に水が当たっている・・避難して来ていた有馬町の低地に住んでいた長男夫婦と連れ合いを二階に上げ、軽トラを少し高いところへ上げたろころで水は床下へ・・家の前を叔母宅の方面へ流れていく濁流・・家の裏の市道はすでに川・・我が家は孤立してました。

少し明るくなってきた午前4時・・家族が「危ないから・・」と止めるのも聞かずに合羽を着て外へ・・雨は相変わらず強く降り止む気配もない・・長靴に水が入るもの構わずに叔母宅の無事を確認し、その足で原木市場へ・・なんと原木が水で流されてコロコロ転がっている・・そんなとき大きな音がして目を向けると、暗がりの中で中州にあった樹齢数百年の杉の大木が倒れていく・・声も出ず・・でも逃げようともせず、なぜか冷静にいる自分が不思議でした。

そのまま集落を見回っていると、診療所裏の土手が崩れて谷を塞いでいてえらいことに・・下流の家の様子を確認に走り無事を確認・・
その後も集落の惨状はあちこちで・・そういえば緊急招集もなかったなあと思いつつそのまま歩いて市役所の出張所へ・・そこで目に入ったのは、水没しそうになった出張所・・
少しずつ雨が小康状態になり、水が引いてきたところで待機していた出張所の職員と合流・・
非常電源でとりあえずつながっていた携帯で本庁に連絡を取るも、本庁の電源室が浸水して電源を失っているとか・・「災害調査は任せる・・」ということで、町内の職員を招集して対応することに・・

それから3日間は、携帯も非常用電源が機能しなくなり不通、連絡はアナログ電話機があった我が家でしか連絡方法がない・・あまりにも不便だと思っていたところで、あまり使わなくなっていたアマチュア無線機での通信を試みたところ繋がった・・以後は、無線機と我が家の電話機で何とか連絡を取り、災害を受けた家庭の調査を・・

町内のあちこちで崩土、倒木があり、橋は落ち道路は各所で寸断・・チェーンソーを持って走りながら市民の皆さんの安否確認・・床下、床上浸水の家屋もあり、対応策を本庁に聞くこともできず途方に暮れそうになる自分・・めげるな!と言い聞かせながらその時できることをできる限りやっていきました。

4日目にやっと市街地との交通手段が確保され、登庁して災害対策本部へ現状報告・・そこで、市内の惨状を聞きました。
その後は山間部の災害対応を兼務しつつし、改めて水産振興課長として担当する部門への対応もこなすという目の回るような日々を送ることになりました。

市街地と行き来することができるようになった日、まちおこし塾に参加してくれていた若い衆が「これ持ってきたで」と発電機を我が家に届けてくれた・・そのおかげで、我が家の風呂が使えることになり集落の皆さんにも開放・・その御恩は忘れたことがありません。
翌日には、電力会社の発電車が町内に入り、弱いながらも電気が・・電気のありがたさが身に染みた一瞬でした。

そして、5日目以降は毎日夜遅くまで災害対応・・思えば、年末まで作業服のまま勤務していたような気がします。
地元の飛鳥町に戻っても、潰された家屋を解体したり、重機が入らない集落道の崩土を手作業で片付けたり・・職務以外でも休むことなく動き回った数か月でした。

もちろん多くのボランティアの皆さんが駆けつけてくれて、あちこちで土砂撤去作業などを行っていただいたこと・・泥んこになりながら作業していただいたことには感謝しかありません。
その姿に私たちに勇気をいただきましたし、明日への希望も与えていただきました。
皆さんの力が無ければ、あんなに早い期間での復旧は無かったと思います。

私的には、一つは孤立していた小船集落での記憶・・
迂回を繰り返しながらたどり着いた小船は電柱の上まで流されてきたゴミが引っかかっているなど想像もできない災害を目の当たりにしたこと・・
大阪の友人(スーパーの副社長)から大量に送っていただいた食料品を軽トラックに積んでの訪問でしたが、届けたインスタントカレーを食しながら「こんな美味いカレー食べたのは始めたや」と言ってくれた高齢者の笑顔・・そして所属していたボランティア団体から届いた洗濯機を届けた時の住民の方の笑顔が忘れられません。
そして、区の代表者から家の解体依頼を受けて、漁師の皆さんに出張ってもらったことも・・普段は海仕事しかしていない人たちが、手に手にトンカチやくぎ抜きをもっての汗だくの作業・・そして一方では、美味しい魚を食べてもらいたいと、避難所で刺身やみそ汁を作ってふるまっていただきとても喜んでいただいたこと・・ずっと心の中に残っています。

それともう一つ忘れられないのが、何とか通れるのではと思いつつ一人峠道を車を走らせ、落石や土砂をどけながらたどり着いた限界集落・・親方が一人で仕事場を守っていて、無事な姿を見た時の安堵の気持ち・・そんな心配していた気持ちとは裏腹に「えらいことやったわ」と笑いながら言う親方の姿にあっけにとられたこと・・「この人の度胸は半端やないわ」・・

幸い、市内のあの惨状にも関わらず、犠牲者がただの一人もいなかったこと・・それは備えがしっかりとしていたということだけでは無く、いくつもの偶然と幸運があったことと、命を賭して救助活動を行ってくれた関係者の方々のご尽力であったことを忘れてはなりません。
「災害は起こってみないとわからない」などと言う方もいますが、予測できることにできる限り対処して、そして予想外ともいえることにも注意を怠らない備えがあって、被災を抑制することが出来ると思います。
いつも偶然や幸運が私たちを助けてくれるとは限りません。
予見と予防をソフト面だけではなくハード面でも実行していける自治体を目指すこと・・それが安全安心の地域づくりと言えるのではないかと思います。

災害後11年・・多くのボランティアの皆さんに駆けつけていただき、土木事業者の皆さんを始めとした関係者の不眠不休の災害対応・・そしてその後の災害復旧事業を経て、今ではその形跡を目にすることは少なくなりました。
しかし、あの災害を「過去のこと」と片付けてしまうことは決してあってはならないと思います。
先日、和気と対岸の熊野川地区を結ぶ「三和大橋」についている傷を見上げながら、「あそこまで水がきたんですよ」と遠来のお客様に・・
「この気候変動の世紀・・なにがあってもおかしくはないですね」というお客様の言葉に改めて「異常気象」が異常ではなくなってきている現代を心に刻みました。

100年に一度の災害は、もしかするとすぐそこにあるかもしれない・・
こころして備えていきたいですね。

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熊野市議会議員久保さとし

久々の投稿です。

ブログへの投稿の不具合もあって投稿できずにいました。
ちょっとしたことで回復しましたので、また機会を見ながら投稿していきます。

さて、7月29日に令和4年度熊野市戦没者追悼式へ参列させていただきました。
市議会代表として追悼の辞も述べさせていただきました。

私の叔父二人は、先の大戦で異国の地で戦火にその命を落としました。
もちろん戦後生まれの私は、二人の叔父の生前の姿の記憶はありません。
本家の仏間に掲げられているお二人の遺影でしか面影を偲ぶすべはありませんが、お二人とも優しそうなお顔でとても戦いを好むような人でないことは間違いないと推察できます。
上の叔父は南方海上で船とともに爆沈・・下の叔父は終戦を迎えていたにも関わらず、在留邦人を退避させるために、平和条約を破って侵攻してきたソ連軍と戦って戦死・・いずれも遺骨すら帰ってきていません。
散華する前・・お二人の脳裏には家族であったり故郷の風景が浮かんでいたことかと・・わが身内だけでなく、そのすべての英霊は同じように家族を故郷を想い、そして平和を願いつつその命を落としていったのかと思います。

「国を守る」という大義は、決してその時代の為政者たちの考える「国」の利益やメンツではいけないことは誰もがわかることと思います。
しかし、現代起こっている戦も含め「国を守る」という大義による戦の多くが為政者たちのそんな思いで起こされている・・そんな気がしてなりません。
「国益」という言葉がよくつかわれますが、為政者の考える「国益」によって国民を不幸に導くようなことがあれば、それは決して「国益」と言えるものではありません。
今世界中で起こっているウクライナでの戦争も含め、他の戦争・紛争にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。

私はこの不安定な世界情勢の中で、きれいごとで国を守ることができるとは思っていませんし、国を守るための備えをすることにいささかも疑問を持つことはありません。
ただ、何かに流されながら戦に巻き込まれていくことは決して避けなければならないと思っています。

戦争の悲惨さを知らない私たちは、無責任にこのことについて語る立場にはないことはわかっています。しかし、戦いで命を落とし傷つくその多くの人は普通の市民であり、決して好んで戦いに臨んでいる人たちではないことは間違いありません。
そのことを肝に銘じ、先の大戦のような悲劇が再び起こらないようそれぞれが努力することが大切・・叔父たちもきっとそう願っている・・そんなことを想いながら戦火に散った御霊に追悼の誠を捧げてきました。

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今日の熊野から未来の熊野へⅦ

<次世代を担う人材育成を>

私はこれまで全国各地の地域おこしの成功事例とされるいろいろな自治体を回ってきました。

そしてそこで一様に感じたのは、優れたリーダー=首長(市長、町長)の存在とそれを支える人材が民間・行政を問わず豊富であることでした。
また、地域おこしのリーダー=首長(市長、町長)ではない事例も少なからずあります。
そしてその事例の場合は、首長(行政)が黒子に徹して事業を支えていること、そして前者と同様に様々な能力を持ったスタッフが民間・行政在することは言うまでもありません。
そして、そのリーダーに続く存在となる人材もその中から育ってきているという風に感じたところです。

ただ、有能なリーダーがいても、周りがそれに依存してしまうことで人が育たなくなることがあります。
それは、優れたリーダーがワンマン化してしまうことにあります。それはリーダーの能力が高いが故に人が育たないとも言い換えることができます。
その要因はリーダーにすべての権限が集約されることで、トップの判断が全てになってくること、そしてトップダウンが多くなることでが多様な意見が出にくくなり、トップに任せることが常態化し、その結果未来を担う人材が育たなくなっていると言われています。

私は市職員時代からことあるごとに人材育成の重要性について提起してきました。
市職員時代には、若手自営業者を中心とした地域経済の担い手の育成を目的に、「熊野商人塾」というセミナーをある団体の支援をいただいて定期的に開催してきました。
また、市議としての活動の中では(コロナ禍で中断を余儀なくされていますが)数年前に職業のジャンルを問わない勉強会「熊野未来塾」を開催してきました。

ただ、本来なら行政においてこのことに力を入れていくべきであるということことから、市議会の場においても一貫してこの必要性を提起し対応を促してきました。
しかしながら、このことについての取り組みはあまり行われることはないまま今に至っています。

個人の力ではこういう試みを継続していくことには少し限界を感じてはいますが、行政が腰を上げないのであれば、やはり誰かがこのことに取り組んで行かないと、ますます熊野市における地域おこしのレベルアップ、スキルアップを果たすことはできないと感じています。

今後とも、行政に対してこのことを働きかけるとともに、自ら「熊野未来塾」を再開させるなど、熊野市の未来の担う皆さんが自ら熊野市の未来づくりを考える機会の提供に取り組んで行きたいと思います。

「一人で描いた未来は一人の夢の結実しかもたらさない、多くの人で描いた未来はたくさんの夢を結実する木を育てる」・・そうは思いませんか。

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今日の熊野から未来の熊野へⅥ

<チャレンジド(障がい者)の社会参加を>

チャレンジド・・と言う言葉を知っていますか。

チャレンジド・・それは心や体に不自由がある方のことを意味し、通常使われている「障がい者」というその文言が表すようなネガティブな存在から脱却できる社会の創造をめざすために使われだした言葉だそうです。
私はこの言葉を中学生の女の子から教えていただきましたが、まさに「障がい」という言葉の与えるイメージについて考えさせられるところとなりました。

さて、そのチャレンジドの皆さんを取り巻く我が国の環境は、北欧などの先進国と比べ生活環境、社会環境・・いずれにおいても見劣りすることは否めません。
熊野市においても、施設や道路などのインフラ整備はもとより、就業問題など改善すべき問題は少なくありません。

私は市職員時代、広域で設置された「紀南健康長寿推進協議会」というところで、障がいを有する方々(チャレンジド)や高齢者の社会参加の取り組みについて関わってきました。
その際直面したのは、社会参加を果たすことができる環境が余りにも脆弱だったことでした。
それは道路や施設のインフラが、チャレンジドの皆さんにとって決して使い勝手の良いものにはなっていないこと、それどころか普通に生活することすらも難しい状況であることでした。
また、雇用だけでなく普通に社会生活に入っていける環境もほとんど開かれていない状況で、どうすればよいのか途方にくれたものでした。

5年間在籍した同協議会でしたが、ハード整備などに取り組めるような組織では無かったので、チェレンジドの皆さんの生活を軽減する自助具を作りサポートする工房を、ボランティアの皆さんの協力を得て立ち上げたり、戸外での活動をサポートするボランティア組織を立ち上げたりといろいろ取り組みました。
また、雇用や社会参加ができるきっかけ作りとして、木工作品や苔玉つくりなどの教室を開催したり、園芸福祉というジャンルでの今でいう「農福連携」を行う組織を立ち上げたりいろんなことを手掛けていました。

しかし宮仕えの常で異動ということになり、全く違った部署へ配置され、何故かその組織への関与をしないようにとの指示までされたことで、その後全く関与することができなくなってしまいました。

その後10年以上の歳月を経て市議として活動するようになり、現在のチャレンジドを取り巻く環境を眺めたとき、あの頃と大きく進歩したとは言えない状況であること、そして立ち上げた組織が支援も無く継続できなくなっていることに愕然としたものでした。
以後、市議会の場だけでなく、いろんな場面でチャレンジドの社会参加が容易になる環境づくりを訴え続けてきました。
しかし、施設などのバリアフリー化は進まず、社会参加・自立にとって一番の課題である雇用の問題も進んでいるとは言えない状況です。

雇用の問題は、特別支援学校などにおける、雇用につながる技術を取得する「専攻科」の設置や、農福連携などによる新たな雇用の創出など可能性はたくさん残っていると思います。

チャレンジドが普通に暮らしていける生活環境の整備・バリアフリーのまちづくりを進め、そして障がいの状況に応じた社会参加ができる仕組みづくりを進めることは、チャレンジドだけでなく高齢者の生活環境整備、社会参加にもつながると信じています。

このことについては、もちろん行政の理解と積極的な関与が必要ですし、それと併せてこの地域全体の意識づくりも必要です。
かって思い描いたノーマライゼーションのまちづくりが、現実のものになるよう皆さんと共に考えて行きたいですね。

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今日の熊野から未来の熊野へⅤ

地域医療の充実を
<中山間地域拠点診療所構想>

地方と言われる自治体において「医療」は「地域医療」という言葉で特化され、安全安心のまちづくりの最も重要なキーポイントとされています。

しかし、その「地域医療」の充実は、施設整備や最新鋭機器の導入というハード面での問題より、医師不足という問題が大きな足かせとなっていて、この地方の拠点病院とされている「紀南病院」では、産婦人科や脳外科などにおける専門医の確保が困難となり休診を余儀なくされています。
一方で、熊野市内の中山間地域における診療所においては、常駐医師が離任して後その補充ができないことから、地域住民の医療環境に大きな影響を与えています。

では今の熊野市の中山間地域における医療の現状はどうなっているのでしょうか。神川、育生の診療所は週に各0.5日の出張診療・・荒坂・五郷の診療所は荒坂のH先生がその業務を兼務して支えてくれている状況です。
神川、育生の市民の方々は常駐医の確保を切望していますが、募集しても確保できないとのことで期待できる状況ではありませんし、荒坂・五郷についてもH先生の献身的な働きでなんとかなっているものの、いつまでも先生の働きに甘えていていいのか・・疑問です。

私は、これまでその解決策として、中山間地域における「拠点診療所構想」を提言してきました。
簡単に言うと、既に紀南病院からの医師派遣で拠点診療所的な役割を果たしている紀和診療所にに習い、旧熊野市エリアの常駐医が不在の中山間地域に拠点診療所を設置してそこに医師を配置する・・もちろん医師が経営に関わらなくてもよいように勤務医として雇用して業務を行う・・
そして、オンライン診療や保健師さんとコラボした疾病予防、健康観察なども実施していけば、中山間地域においても市街地に近い安全安心の環境が構築できるのではないかと考えるのです。

紀南病院の医師確保と、中山間地域の医師確保という問題は似て異なるものであって、同様に考えることはできません。
拠点病院である紀南病院の医師確保は、診療科の維持における専門医という問題であり、大学病院などとの関係性など複雑な要素があることから、政治的な対応も必要とされますので、関係する自治体の首長さんの力量が問われるところかと思います。
しかし、地域診療所においては、医師確保に係る雇用条件(特に給与面)と医療ネットワークの整備など環境要件が解決されれば、けっこうな確率で医師確保は可能かと考えます。

いつまでも委託開業という形で医師を募集しても、人口が激減している地域において事業としての診療所経営が成り立つわけもなく、その募集形態を変えないということは、そもそも行政が医師確保をあきらめているととられても仕方ありません。

熊野市民は、どのエリアに住まいしようと同様に行政サービスを受ける権利があります。そして安全安心に暮らしていく権利も保障されるべきと思います。
それは、紀南病院における医業の充実も同じで、大都会の高度な医療をとまでは行かなくても、通常、総合病院にある診療科が整備され、そして市民が普通にいろいろな疾病に対する医療を受けられる権利を保障することも行政の責任かと考えます。

今後とも積極的な地域医療への施策を強く促していきたいと思います。

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今日の熊野から未来の熊野へⅣ

住みやすいまちづくりを!

住みやすいまちづくりとは何? と考えたことありませんか。

生活に必要なものが全て日常の生活圏にそろっていることが一番であることは間違いないところですが、全てがかなえられることは容易なことではありませんし、それが全てでは無いとも思えます。

今の熊野市において「住みやすいまちづくり」の要件で最も必要とされることは、市域のそれぞれの地域によって大きな違いがあります。
ある地域では道路などのインフラの整備かもしれませんし、ある地域では公共交通機関の充実かもしれません。また、年齢層によっては医療機関の充実かもしれないし、教育環境の整備かもしれません。

住みやすいまちづくりを考えるとき、それらのニーズを行政がしっかりと把握することが大切で、タウンミーティングやアンケート調査まもちろんのこと、実情を常に把握できるシステムが構築されていることが大切です。
優れたまちづくりを行っている先進自治体においては、地域の現状がリアルタイムで把握できる情報網を張り巡らす一方で、定期的にタウンミーティングなどを行って直接市民の声を聴くことを行っています。
投書や市民の手紙などの一部の方の声だけでなく、広く市民の声を聴く、市民との対話を行っていくことを常としているのです。

熊野市においては、市議会が市民懇談会を開催して市民の声を拾い上げるという活動を行ってきましたが、市議会には執行権が無いことから、どうしてもそこにタイムラグが生じ、リアルタイムに施策への反映することができません。
本来、市議会の行うタウンミーティングは、行政が実施する施策・事業等についての意見交換を行ったり、政策的な提言を市民の中から拾い上げるという意味で行うものであり、市民生活に直結する事案の現状把握は、行政が行うべきものであり、そのことで施策へすぐに反映することができると考えます。

もちろん議員活動の中で議員自らが市民の声を聴き、それを行政に伝える、あるいは政策提言していくことの必要性は言うまでもありません。
しかし、それ以上に、市民に寄り添う施策の実現には、行政自らがリアルタイムで市民の声を収集することが必要であると思います。
私は、行政が行うタウンミーティングの必要性を何度となく提唱してきましたが、なかなかそれが実現していないことが残念でなりません。

住みやすいまちづくりは、市民自身が住みやすいと感じるまちづくりでなければならないと考えます。
より市民の思いが籠ったまちづくりの実践を提唱していきたいですね。


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熊野市議会議員久保さとし・・【今日の熊野から未来の熊野へ】Ⅲ

*水産業編*

漁獲の減少、魚価の低迷、担い手不足・・日本の水産業を取り巻く環境は、他の第一次産業同様厳しいものがあります。
そして、これまで水産業の基幹をなしてきた漁業法の改正により、これまでの漁業協同組合を中心とした漁業経営のありかたが大きく変わろうとしています。そしてそれは既存の漁業者(漁師)の存在さえも否定されることにもつながることが危惧されています。

熊野市の水産業もご多分に漏れず、漁獲の減少、魚価の低迷に悩まされ、特に突如として南下しなくなったサンマの不漁は、漁獲の減少のに大きな要因となっているとともに、サンマの丸干しなどのこの地域の特産品にも大きな影響を与えています。
また、一本釣りや定置網などの沿岸漁業においても年々その漁獲高は減少しており、産業全体に大きな影を落としています。

私が市職員時代の最後に、市長の英断で三重県では数少ない「衛生管理型魚市場」を整備して、安全安心の魚を標榜できるブランド化を図り、その後は未利用魚などの有効活用への取り組みとして「すりみん」などの商品化にも取り組んできました。

しかしながら、漁獲の減少と魚価の低迷は漁業従事者の減少を招き、そして担い手も失うという負のスパイラルを生みつつあります。

いま、熊野市の漁業に必要なことは、産業全体の経営形態を再構築することと、新たな販路形態を整備していくことが必要と考えています。

獲る漁業から育てる漁業へ・・というフレーズはかなり以前から言われてきましたが、本物が重視される市場において、ただ単に養殖すれば良いという時代ではなくなっています。
そこには、しっかりとした栽培理念と物語が必要ですし、加工においても「こだわり」が求められています。

農林業と同じように、川上から川下まで、しっかりとしたプランニングと、マネージメント、そしてマーケティング戦略を行って、未来につながる漁業を考えていきたいですね。

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熊野市議会議員久保さとし・・【今日の熊野から未来の熊野へ】Ⅱ

*林業編*

熊野市の林業・・林業の低迷が顕著になってもうどれくらいの期間が経つのか・・昭和30年代に段階的に進められた木材の輸入自由化が国産材離れを誘発し、そのことによる価格の低迷が森林所有者から経営意欲を失わせることに・・そして、その影響による林業従事者の減少と相まって、森林の荒廃が進むこととなりました。

熊野市においても例外ではなく、小規模山林主、不在山林主が多いことから、施業がされていない森林が多く見られるようになっています。

また、素材生産者においては、事業地確保の問題や、林道・作業道など路網の整備、林業機械など資本整備の問題などが、その事業規模拡大のネックとなっています。

国においてはいろいろな補助メニューにより事業の活性化を図ろうとしてきましたが、対処療法的なものが多いことから、根本的な解決にはいたっていません。

森林、特に人工林の荒廃は、それが災害を誘発することにつながることから、しっかりとしたスケジュールに基づく施業が必要であり、このことへの抜本的な対策が求められています。

そこには、新たな森林管理システムの構築が必要であり、川上

側で森林の経営管理の集積・集約化を図るだけではなく、木材の需要側である川下側との連携を図ることが不可欠であると考えます。

既に熊野市の一部製材事業者においては、このことを踏まえ自主的な事業展開をされていますが、熊野市全体の林業の底上げを図るのであれば、行政が主導して森林所有者、素材生産者、木材加工業者、流通業者、木材の需要者といった川上から川下に至る多様な主体の連携を図っていく施策の展開が必要と考えます。

そのためには、より専門的な知識を有する人材の確保や、研究機関、企業等との連携も必要ですね。

市として何ができるのか、提言も行いながら主体的な取り組みを促していきます。

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熊野市議会議員久保さとし・・【今日の熊野から未来の熊野へ】Ⅰ

<産業の活性化を!!>

*農業編*

熊野市の農業・・基幹産業とされながらも、決して良い状況にあるとは言えません。
その原因がについては、担い手不足、価格の低迷などであり、それらは全国的な問題でこの熊野市だけの問題では無いというように捉えられています。

では、農業を活性化して地域の活性化につなげているという事例は無いのでしょうか・・
いえいえ、全国には多種多様な成功事例があって、農業が基幹産業と言い切っている自治体もあるのです。

その成功事例の多くは、民間から発生したものを民官協働で育て上げてきたものが多く、官主導、民主導という縦割り的なものではなく、横断的に連携した事例がほとんどです。
また、プランナーと実行部隊を別建てに考えるのでなく、Plan-Do(計画と実行)を一体的に考え、プランニングの過程で実行者の意志が働くことが成功への大きな要因となっています。

一方で、自治体自らがパイロット的に事業を実施して成功事例を導き出している自治体もあります。
ただ、この事例についても、プランニングの段階から将来の実行者となるべき方々・・農業の場合なら農家をその中に加え、現状の把握と事業の可能性を計りながら実施していることは当然のこととされています。

また、既存農業者の保護育成が農業の活性化にとって大切なことであることは言うまでもありません。
この地域の農業で大きな割合を占める柑橘農家や、ハウス栽培などに取り組む農家は、その販路拡大やブランド化の過程において他の産地に負けない仕組みづくりが求められています。
また、中山間地域で稲作などにより耕地を守っている農家への対応は、農業の活性化だけでなく、国土の保全という観点からも大切なことと考えます。

農業の活性化は奇策により一気に達成できるものではありません。
まずは、現在農業を生業としている皆さんが安定した経営ができるような環境づくりを求め、新たな取り組みは農業者の皆さんにその後を託せるか?、波及効果が得られるか?、そして新規参入が容易か?・・を念頭に、Plan-Do(計画と実行)が一体となった活性化案を提案していきたいと思います。

皆さんのご意見をお聞かせください。

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熊野市議会議員久保さとし・・11月定例会一般質問を終えて

先日11月定例会において「熊野市が目指す農業振興について」「人口減少抑制に係る施策について」の2項目について一般質問をさせていただきました。

いずれも今議会で7期目に向けたこれらの部門における施策への市長の想いをお聞きしたいということでの質問でしたが、市長に代わって壇上から答弁に立った農林業振興課長、市長公室長からは、ぶれないというところでは当然のことと受け止めましたが、以前とさほど変わらない答弁でした。

「熊野市が目指す農業振興について」は
これまで市が実施してきた農業施策は、市が主導して行う事業が多かったことから、その事業の結果をしっかりと検証して次に活かしていただくことはもちろんのこと、より大切なのはこれまで守り続けられてきた熊野市の農業を育んでいただくことを強調し、既存の農業者に寄り添った施策の充実をお願いしました。
また、アグリパーク(農業公園)などの大きなプロジェクトの構想策定には、地元で頑張っている農業者の参画は必要不可欠であることなどを質し少しは理解をいただいたところです。
また、この施設の構想の中には、SDGsという究極の目標達成のための設えが必要なことも求めました。
その外、販路拡大などへの積極的な関与などについても強く要望しましたが、以前の質問の際に答弁されていたふるさと公社の商社化などが遅れていることは認めながらも、農業者自らが積極的にそれに取り組むことが必要という姿勢は変わっていませんでした。

再質問のいろいろなやりとりを受けての市長の答弁からは、私の思いを少しは前向きに受け止めていただいたようにも感じたところですが、今後の熊野市の農業の活性化は、官民の連携が不可欠であることと、厳しい環境下で頑張っておられる農業者の皆さんの声に少しでも耳を傾けていただき、想いを共有していただくことをお願いしてこの質問を終えました。

「人口減少抑制に係る施策について」は
移住・定住策においての対応策や啓発活動、そして一貫したサポート体制について質すとともに、移住定住策の一つの柱としてきたサテライトオフィスなどの取り組みについても質しました。

市としてはこれまでの施策を充実させて進めていくということでしたが、Webで取材した他の先進地自治体では、コロナ禍を逆手に取った移住定住策や、地元出身者をいかに引き戻すかと言う施策に取り組んで成果を上げていることなどを紹介し、より効果的な施策の実現を求めたところです。
また、サテライトオフィスなどの誘致については、これもWebで取材した他自治体の事例を紹介しながら、そのニーズをしっかりと把握することの重要性と、民間事業者の活用を促したところです。
これを受けて、市長からは前向きなご答弁もいただきましたので、移住者の逆氏名とまでは行かなくても、ICTの活用によるより効果的な啓発や、ミーティングやワークショップなどによる当地に必要な人材かを見極める事業の展開、その後、特に目的をもって移住・定住を希望される方々については、その目的が果たされるような支援策の充実とともに、長いスパンでの見守りの必要性も求めて質問を終えたところです。

今回の発言においては、ICTやDXという用語を並べるだけでなく、それをどう効果的に使って施策を展開していくかが大切であることと、併せて施策の実現には会議室での検討だけでなく、現場における状況把握やヒューマンな部分が必要であることも主張したつもりです。

ただ、どこまでこれが伝わったか・・今後の執行部の取り組みを注視していきたいと思います。

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