「成果をあげる知恵と行動」・・先日読んだものに書かれていたことに納得・・
「成果を上げるには「知恵と行動」が必要で、知恵があっても行動できなければ役に立たず、行動できても知恵がなければあまり良い成果は生まれない。
また、いくら「知恵と行動」を実践したつもりでも、成果が上がらなければその「知恵と行動」は間違っていたと言って過言ではなく、ただ単に無駄な時間を費やしただけのこと。」・・・こんな趣旨のことが書かれてました。
確かに、いくら知恵があってもそれを行動(実践)に移さなければ意味は無いし、たいした知恵もなく行動しても成果は期待できないことは言うまでもありません。
また、いくら知恵と知識を結集したものとして行動しても、それが成果を上げなければ、ただいたずらに時間と経費を浪費しただけに終わります。
その原因は、その行動が多くの知恵と知識を結集したものではなく、少人数による数少ない知識から生まれた思い付きや思い込みを知恵と勘違いして行動してしまうことかと思います。
言い換えれば、一人の声の大きな人の思い付きを実践しても、たいした成果は生まれないし、結果的には実践したというアリバイ作りに終わることが多いのかなと思います。
また、知識・知恵は一方から得るものではなく、多方面から得ることが必要であることは言うまでもないのに、誰か一人の知識・知恵に追随してしまう体制もアリバイ作りを助長することとなります。
前出の書き物には「成果を上げる知恵とは、その場その場で適切に対応できたり、臨機応変にその場に相応しい処置のできる融通が利く能力」でもあると書かれていました。
その能力は「人間性の優れた人」に備わっている、そしてその能力は、実践の賜物であり行動なしに備わることはないとされていました。
結果は重要ではない、そのプロセスが大切だ・・と言う人がいます。
しかし、それはその組織に余裕があるときに言える言葉で、危機に陥っている状況下では成果・効果が求められることは言うまでもありません。
組織や体制の中で、成果・効果が上がっていない現状であるなら、「成果をあげる知恵と行動」が実践されていないことは間違いなく、組織や体制の根本的な改革が必要ではないか・・と考えさせられました。
幕末から明治が始まるまでを描いた司馬遼太郎の「花神」
これは私が崇拝する大村益次郎の人生を軸に描かれていますが、その中に表された歴史観とでも言うか・・・
古今東西、世界の動きを見渡して、革命のような歴史の大変革期には、三種の人物が登場すると司馬は言っています。
三種の人物とは、思想家、戦略家、そして技術者であり、
①大変革期を前に、まずは変革を唱える思想家が登場する。
しかし、この思想家は、体制(保守)側からは危険人物とみなされ、
殺害または処刑という非業の死を遂げる。
②思想家の死を受けて、次に歴史の変革を実行しようとする戦略家が登場する。
だが、戦略家も多くの場合、変革の完了を見ることなく、やはり無念の死を遂げる。
③そして、変革の総仕上げ人として、技術者が登場する。
ここで司馬が言う技術者とは、幅の広い意味であり、
軍事技術者、法制技術者、経済政策の専門家等を指します。
「花神」の作中において、司馬は、明治維新に向けて長州藩では思想家、戦略家、そして技術者がいたと説いています。
◆幕末…
①思想家:吉田松陰
②戦略家:高杉晋作
③技術者:オランダ兵学を習得した主人公の大村益次郎であったと「花神」には記されています。
・ ・ ・ ・ ・
さて、このような変革期における、司馬的考えは、幕末における長州藩のみならず、フランス革命やロシア革命にも概ね当てはまるとする研究者が多くいます。
◆フランス革命
①思想家:ルソー
②戦略家:ナポレオン(少々変則的)
③技術者:ジョミニ(ナポレオン軍の参謀。「戦争概論」という兵学書の著者)
◆ロシア革命
①思想家:マルクス
②戦略家:レーニン
③技術者:フルンゼ(旧ソ連第二代国防大臣。旧ソ連・現行のロシア連邦では極めて有名な軍事指導者)
これらの「三種の人物の法則」が、今回久保さんが書かれた記事
>>組織や体制の中で、成果・効果が上がっていない現状であるなら、「成果をあげる知恵と行動」が実践されていないことは間違いなく、組織や体制の根本的な改革が必要ではないか・・と考えさせられました。>>
にも重ねることが出来るような気がします。
長文、失礼いたしました。
コメントありがとうございます。
特別な大変革というわけではありませんが、少なくとも閉塞感が見えている組織や体制にとっては、今一度「成果をあげる知恵と行動」について考えてみる必要があると思います。「三種の人物の法則」・・あまり時間が無いとしたら、思想家、戦略家、技術者・・すべて一気に揃えたいですね。